源平合戦記


私は、相変わらず梅里の湯へ通う。大高一族に興味を持つ私。今日は、私にとつて忘れられない日となるだろう。暇な老人との会話。大高森岳老人は、私と良く話をする。まず私は、老人が海外へ旅したかを聞いた。老人は、欝と下目をしながら、話始めた。フランスのニースへ旅したと語り始める。場所は、ニース探し、地図を広げ、ニースの場所が分からない。見つけた。フランス南部の都市、老人は、遊びに言ったという。地図は、日本へと関東平野にある霞ヶ浦へ麻生が私の生まれ故郷。そして神田で節子と知り合い、中野新橋へ、それから杉並の和田へ、今住んでいるところである。老人は、妙法寺の奥の堀ノ内に住む、旧家の生まれ。私より10歳ぐらい年上である。地図は、岩手の久慈へ、そこ生まれの、慶応病院勤務の中平氏の事へ遊び人で新宿に住む事を誇りにしていた。彼は、亡くなるのであるが、退職後はフイリピンで暮らすことを夢見ていた。退職金は遠縁にわたる。降って山形の米沢へ、節子の生まれたところである。佐渡へ老人は、旅したという。狭くすぐ島を回ってしまうという。北朝鮮へ、拉致被害者横田めぐみさんのことへ。隣国、丶中国へ、イギリスの植民地であった香港へ、経済学発祥地ロンドンへ。ここで終わりかと思うと、老人は、おもむろに語り始める。隣に住む兄の事を、大高正朝を。大高一族は、正朝と森岳源頼朝平清盛、の話へ。正朝は、頼朝から、森岳は、清盛かとったという。大高一族は、源平にわかれるという。源平合戦の始まりとして、私の友、大高森岳老人に平家の再興を約す。奢る平家は、久しからず。例とうり奢らず戦っていきたい。