慶応大学の絵理非と

名を、長島守るという。これが俺の閾下タダをやってみろ。本音と建前を使い分ける。38年前のことである。本人は、そういうこともあったなあ?だろう。慶応の恥、と言う言葉にも平然となった。罵声を浴びても平然としていられる。やまざきなかの店の前でベンチで死ぬことは店の迷惑という言葉にも平然とする。魔にがなんでも、資本主義は、建前と本音があることを疑わない。今日も慶応の偉い人に今井節子著「島崎藤村研究」私の起死回生をかけた礼状にも書いた。開放されたと。しかし、夜に、また百合ままに、始まる。得体のしれぬメール攻撃である。泣きながらきがくるったように、得体のしれぬメールである。私は、生まれ変わらねば成らぬ。諦めてもいる。節子を死なせ、私が生きる。こんな理不尽なこと神は許さないであろう。私の魂は、分裂したのである。節子が死ぬ。27日の命日、最後の機械化も知れぬ。際防具、今井五郎。人間として生きられない運命、それは、節子とともにあった。ひどい人間である。獣。